城彰二:日本

 

城彰二は、日本サッカーの歴史において重要な役割を果たした元プロサッカー選手です。

1990年代から2000年代初頭にかけて活躍し、日本代表のエースストライカーとして1998年フランスワールドカップに出場するなど、数々の功績を残しました。

今回は、城彰二のキャリアとプレイスタイルについて詳しくご紹介します。

城彰二のキャリア

城彰二は1975年6月17日、北海道室蘭市に生まれ、鹿児島県姶良市で育ちました。

サッカーとの出会いは幼少期で、小学生時代にサッカーのビデオを見て、後にチームメイトとなるフランク・オルデネビッツのプレーに魅了されたそうです。

鹿児島実業高等学校に進学し、サッカー部で才能を開花させました。

高校時代には第72回全国高校サッカー選手権大会でベスト4に進出するなど注目を集め、チームメイトには後に日本代表となる選手も多くいました。

 

 

1994年、高校卒業後にJリーグのジェフユナイテッド市原(現在のジェフユナイテッド千葉)に入団します。

驚くべきことに、デビュー戦でゴールを決め、そこから4試合連続ゴールを記録しました。

 

 

この記録は高卒新人としては異例で、今も破られていません。

初年度だけで12得点を挙げ、「ジェフといえば城」と呼ばれるほどの存在感を示しました。

1997年、さらなるステップアップを目指して横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)に移籍します。

横浜マリノスでも中心選手として活躍し、1998年には日本代表に選出され、フランスワールドカップに出場しました。

この大会は日本が初めて出場したワールドカップで、城は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるアジア最終予選のイラン戦で同点ゴールを決め、本大会出場に大きく貢献しました。

 

 

しかし、大会後の激しいバッシングに直面し、心身ともに厳しい時期を経験したことも明かしています。

2000年、城は日本人選手として初めてスペインのリーガ・エスパニョーラ1部、レアル・バジャドリードにレンタル移籍します。

 

 

15試合に出場し2得点を挙げ、レギュラーとしてチームに貢献しましたが、膝の怪我により思うような活躍ができず、日本に帰国することになりました。

この挑戦は、後に続く日本人選手たちにとって大きな足跡となりました。

帰国後は横浜F・マリノスに復帰し、その後ヴィッセル神戸に移籍します。

しかし、怪我の影響やパフォーマンスの低下から、以前のようなゴールラッシュを見せることは難しくなりました。

2003年に横浜FCに移籍し、2006年には三浦知良選手とツートップを組んでJ2優勝を達成、チームをJ1に昇格させました。

同年、13年間の現役生活に幕を閉じました。引退試合は2008年に横浜FCの主催試合として行われ、多くのファンが彼の功績を称えました。

 

 

引退後はサッカー解説者として活動を始め、日本テレビの「サッカーアース」などでコメンテーターとして出演していました。

また、日本サッカー協会のS級ライセンスを取得し、指導者としても活躍。

2013年にはインテル・ミラノの日本サッカースクール「インテルアカデミージャパン」のテクニカルディレクターに就任し、2019年には北海道十勝スカイアースの統括ゼネラルマネージャーに就任するなど、サッカー普及に尽力しています。

さらに、YouTubeチャンネル「JOチャンネル」を運営し、サッカーやスポーツ界について率直な意見を発信しています。

 

城彰二のプレイスタイル

城彰二のプレイスタイルは、ストライカーとしての鋭い得点感覚と、状況に応じた柔軟なプレーが特徴です。

身長179cmとフォワードとしてはそれほど大柄ではありませんが、ゴール前での嗅覚とポジショニングの良さが際立っていました。

デビュー戦から4試合連続ゴールを決めたことからも分かるように、ゴールに対する執念と冷静なシュート精度を持っていました。

彼のプレーの最大の魅力は、ゴールパターンの多様性です。

ヘディング、ボレーシュート、ドリブルからのシュートなど、さまざまな形で得点を重ねました。

特に、1996年アトランタオリンピックでの「マイアミの奇跡」では、強豪ブラジル相手の勝利に貢献しました。

 

 

この試合では、ブラジルのDFをスピードとテクニックで翻弄する姿が印象的でした。

また、城は状況判断力にも優れていました。スペインでのプレー経験から、狭いスペースでのボールキープや、味方との連携プレーを得意とするようになりました。

横浜FC時代には、経験を活かしてチーム全体を引っ張るリーダーシップも発揮しています。

一方で、彼自身が語るように、若い頃は自分のエゴが強く、チームプレーよりも個人の結果を優先する傾向があったそうです。

しかし、キャリアを重ねるにつれて、チームのためのプレーを意識するようになり、特に晩年には若手選手を支える役割も担いました。

城のプレースタイルは、現代のストライカー像とは少し異なるかもしれません。

現代サッカーではフォワードにも守備やプレスが求められますが、城の時代は純粋なゴールゲッターとしての役割が重視されていました。

それでも、彼のゴールへの執着心や、どんな状況でも得点を狙う姿勢は、今の選手たちにも通じる普遍的な魅力を持っています。

まとめ

城彰二は、日本サッカーの黎明期から世界への挑戦、そして次世代の育成まで、幅広い分野で貢献してきた人物です。

ジェフユナイテッド市原での華々しいデビューから、スペインリーグへの挑戦、ワールドカップでの活躍、そして引退後の指導者としての活動まで、彼のキャリアは波乱万丈でありながらも輝かしいものでした。

プレイスタイルは、得点感覚と柔軟性を兼ね備えたストライカー像そのものであり、多くのファンに愛される理由となっています。

彼の経験は、現代のサッカー選手や若い世代にとって大きな教訓を与えてくれるでしょう。

特に、挫折を乗り越え、常に前を向いて努力し続けた姿勢は、スポーツのみならず人生においても学ぶべき点が多いです。

城彰二のサッカー人生は、日本サッカーの歴史にしっかりと刻まれています。

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